浮世絵師/浮世絵・掛軸・書画・骨董・古美術品の販売・鑑定・買取/古美術もりみや



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浮世絵師略歴
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【芦国】あしくに あさやま・浅山芦国   生没年:安永初期〜文政三年(1820)
大坂の人。松光斎よりやや遅れて活躍した。独自の浪花錦絵の系統をもつ。
 
【安度】あんど かいげつどう・懐月堂安度   生没年:不詳
作画期は宝永から正徳頃。肉筆浮世絵。独特の立ち美人を描く。
 
 【一景】いっけい しょうさい・昇斎一景   生没年:不詳
 明治初期の風俗画・風景画を多く描く。東京名所をはじめ、博覧会や鉄道など明治の時事報道的な三枚続の絵も描いている。画風は広重Vに似ているが、四条派の筆致もみられ、特に風俗画には滑稽味を帯びるものが多い。
 
【歌麿】うたまろ きたがわ・喜多川歌麿   生没年:宝暦三年(1753)?〜文化三年(1806) 54才?
生年は宝暦年間と推定される。幼少より狩野派の町絵師である鳥山石燕のもとで絵を学び、やがて新進の版元蔦谷重三郎と出会い、天明一年(1781)から黄表紙の挿絵や錦絵を出版。以後、喜多川歌麿と称す。
歌麿の代表作が次々と刊行され、美人画の絵師として人気が絶頂に達した寛政期、この時期歌麿にとっては受難の時代となる。老中に就任した松平定信は、寛政の改革を断行し、風紀粛清や出版統制を行ったからである。文化一年(1804)には「絵本太閤記」関連の錦絵によって三日間の入牢、手鎖50日の刑に処せられ、その二年後に死去した。歌麿は度々の弾圧や制約にもめげず、果敢に美人画を描き続け吉原を描き続けて世を去った。全作品中のうち、約半数が何らかに吉原に関連する絵であった。
【歌麿U】うたまろU きたがわ・喜多川歌麿U   生没年:不詳
初め恋川春町に戯作を学び、恋川幸町と称して黄表紙を描く。春町没後、春町Uと名乗る。
また歌麿には画を習い、歌麿没後、歌麿Uを名乗る。
【英山】えいざん きくかわ・菊川英山   生没年:天明七年(1787)〜慶応三年(1867) 81才
江戸市谷の造花業近江屋、菊川英二の子として生まれる。父英二および鈴木南嶺に学び、北斎流も取り入れる。揃物の美人画を多く制作。掛物絵に全身の美人画を多く制作する。菊川派の祖。門人に英泉、英賀、英里、英信などがいる。
【栄之】えいし ちょうぶんさい・鳥文斎栄之  生没年:宝暦六年(1756)〜文政十二年(1829) 74才
幕府御勘定奉行細田丹波守三世の裔時行の長男。安永一年(1772)に家督を継ぐ。天明一年(1781)四月御小納戸役となり、同年十二月辞して寄合となる。寛政一年(1789)致仕隠居する。家禄500石。はじめ狩野栄川院典信門人。のち文龍斎に浮世絵を学び、鳥居清長に私淑する。一見鳥居清長の亜流を思わせる作品から寛政期になると次第に栄之独特の典麗な美人画を工夫。十二等身といってよい様式は時の人気絵師歌麿にさえ影響を与えた。門弟も多数育成し、歌麿に対し別の一派を形成した。
【栄昌】えいしょう ちょうこうさい・鳥高斎栄昌   生没年:不詳
作画期は寛政期。栄之門人の中では一番の作画量を残す。
【栄水】えいすい いちらくてい・一楽亭栄水   生没年:不詳
作画期は寛政から享和頃で栄之門人の中では栄昌、栄里に次ぐ高弟。大首絵の美人画を多く描く。
 
【英泉】えいせん けいさい・渓斎英泉    生没年:寛政三年(1791)〜嘉永一年(1848) 58才 
寛政三年(1791)武士の子として江戸に生まれる。英山の父・英二に寄寓することとなり、英二・英山について浮世絵師として出発するようになった。美人画・風景画や戯作など、独自性を広い分野に発揮し、文政・天保期に歌川派と北斎一門が浮世絵界を独占していく中で、一人気を吐いた異色の絵師。文政前半期の若い頃は魚問屋に寄寓し、娼門酒楼にぶらりと出歩き放蕩無頼の生活をした。また文政末期から天保始めにかけて娼屋若竹屋を営んだりした。弘化期には白粉の「かをり香」を売って生計をたてていた。嘉永一年(1848)58才の生涯を閉じた。
【永濯】えいたく こばやし・小林永濯   生没年:天保十四年(1843)〜明治二十三年(1890)
明画、洋風画などを学び浮世絵派の画家として知られる。肉筆・版画・挿絵など描く。
 
【栄里】えいり ちょうきょうさい・鳥橋斎栄里   生没年:不詳
栄之門下で栄昌に次ぐ高弟で錦絵と肉筆を描く。
【艶鏡】えんきょう かぶきどう・歌舞伎堂艶鏡   生没年:不詳 
写楽との共通点をもつ絵師であるが温和な独特の描き方である。
【猿猴庵】えんこうあん こうりき・高力猿猴庵   生没年:宝暦六年(1756)〜天保二年(1831)
馬廻役300石の尾張藩士。浮世絵風の独自の画風で様々な名所や風俗などを描く記録作家であった。
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【暁斎】きょうさい かわなべ・河鍋暁斎    生没年:天保二年(1831)〜明治二十二年(1889) 59才
天保二年(1831)現在の茨城県古川市に生まれ、2才の時に家族共々江戸へ移り、3才の春には蛙を写生したといわれ、9才の時には川に流れ着いた生首を発見し、写生しようと持ち帰り、物置に隠していたのが見つかり大騒ぎとなった。国芳に入門したのはわずか7才の時だが、父親が国芳の言動に染まる息子を心配し、三年ほどで辞めさせてしまった。10才の時、狩野派絵師前村洞和に入門するが、洞和が脳病で倒れ、狩野洞白に入門した。早くも19才の時には「洞郁陳之」の雅号を与えられたが、駆け出しの狩野派画家では生活できないために風刺画・劇画などを描いた。明治三年(1870)には書画会場でお上を風刺する絵を描き、五ヶ月収監の上、鞭打ち五十の刑に処された。このあと号を「狂斎」から「暁斎」に改めた。ジャンルを問わず画材を問わず、ひたすら絵を描き続ける人生で59才に亡くなった時にはまだ注文が300程残っていたという。
【暁翠】きょうすい かわなべ・河鍋暁翠   生没年:明治元年(1868)〜昭和10年(1935)
父、暁斎の画風を継承する。
【清忠】きよただ とりい・鳥居清忠   生没年:不詳
作画期は享保から寛延期。 
 
【清親】きよちか こばやし・小林清親   生没年:弘化四年(1847)〜大正四年(1915) 69才
弘化四年(1847)江戸に小揚方総頭取の子として生まれた。文久二年(1862)父の死に伴い家督を相続。
幕臣として維新の動乱に巻き込まれる。幼少より絵を好んだという清親であるが、本格的な習練は明治6・7年頃から始まる。下岡蓮杖について写真術を、英人ワーグマンに油絵を、次いで河鍋暁斎・柴田是真らに学んでいるが、いずれも一時のことで清親はそれらを自己流に深めほぼ独学で一家を成している。光線画と命名された全く新しい風景版画を確立した。
【清長】きよなが とりい・鳥居清長    生没年:宝暦二年(1752)〜文化十二年(1815)
はじめ鳥居派に学び役者絵、次第に鳥居派を抜け出し美人画を描くようになる。美人画の背景に写実的な風景を描写するなど美人画を語る上では外せない絵師。
【吟光】ぎんこう あだち・安達吟光    生没年:不詳
明治期に活躍。西南戦争や国会、日清戦争など報道的な絵を多く描く。
【国貞(豊国V)】くにさだ うたがわ・歌川国貞  生没年:天明六年(1786)〜元治一年(1864) 79才
天明六年(1786)江戸本所五ツ目の船渡場を経営する家に生まれた。初代豊国の門人になり文化五年(1808)には13部の合巻本に挿画し、第一線に踊りでる。文化・文政期は「五渡亭」と号す。天保期は「香蝶楼」と号す。弘化元年(1844)師の豊国号を継ぎ、二代豊国(実際は三代)と名乗った国貞は、名実共に歌川派の総帥となった。幕末浮世絵界の覇者として浮世絵師中、第一の作画を残した絵師として広く知られている。
【国貞U】くにさだU  生没年:文政六年(1823)〜明治十三年(1880) 58才
嘉永五年(1852)に師国貞(豊国V)の長女に入婿。明治3・4年頃、豊国三代目(実際は四代)を継ぐ。
師の亀戸の旧居に移住。美人・役者絵を多く扱う。
【国貞V】くにさだV  嘉永一年(1848)〜大正九年(1920)
歌川豊国V門人、豊国V没後は豊国W門人となる。初め国政Wと号し、団扇絵・横浜絵等の作品を発表する。
明治22年(1889)に国貞三代目を襲名し香蝶楼と号する。文明開化などの風俗絵や役者絵が多い。
【国周】くにちか とよはら・豊原国周    生没年:天保六年(1835)〜明治三十三年(1900) 66才
初め豊原周信、後に三代豊国に師事し、国周の名はこの二人よりとったものという。
最後まで役者絵を描き続けて世を去った浮世絵師である。
【国輝V】くにてるV うたがわ・歌川国輝V   生没年:不詳
はじめ国輝Uの門人か。のち国周門人となる。はじめ歌川を称し、国周門に入ってから豊原を名乗り、国輝U没後に国輝Vを称した。明治二十八年(1895)頃まで作品がある。
【国久U】くにひさU うたがわ・歌川国久   生没年:天保三年(1832)〜明治二十四年(1891)
役者絵が多いが、万延・文久頃には横浜絵を描く。
 
【国芳】くによし うたがわ・歌川国芳   生没年:寛政九年(1799)〜文久一年(1861) 65才
寛政九年(1797)江戸日本橋本銀町に生れた。15歳頃初代豊国に入門するが、この師とは性格が合わず長い不遇の時期を過ごす。水滸伝の豪傑達を描き30歳を過ぎてようやく出世することになる。その後、大判錦絵の三枚続を巧みに利用しワイド画面で迫力ある絵を描き続けた。武者絵の国芳として名をはせたが、ユーモアたっぷりの戯画や天保の改革の規制を巧みにすり抜ける風刺画なども庶民の喝采を浴びた。その一方で風景画などには洋風技法や写実描写を試みたりという面も見せた。文久一年(1861)、65才でこの世を去った。
【月耕】げっこう おがた・尾形月耕   生没年:安政六年(1859)〜大正九年(1920) 62才
独学であるが、菊池容斎の画風を学び一家をなす。明治のはじめ輸出の陶磁器・漆器などの下絵を描き、更に新聞雑誌の挿絵に活躍して知られた。各種博覧会・日本美術協会などに日本画を出品。
【湖龍斎】こりゅうさい いそだ・磯田湖龍斎   生没年:不詳
春信没後の安永年間には美人画の代表画家として活躍する。晩年は肉筆画を描く。
 
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【貞秀】さだひで はしもと・橋本貞秀   生没年:不詳
幕末の浮世絵界に君臨した国貞に弟子は多いが、独自の画風を打ち出した人は少ない。
その中でも貞秀は文政後期から明治までの長い作画期を持ち、豊富な作画量を誇る。横浜絵・通覧図などでは独自性を打ち出した。
【式麿】しきまろ きたがわ・喜多川式麿   生没年:不詳
喜多川月麿門人。文化頃に活躍。肉筆・錦絵で美人画を描く。
 
【春章】しゅんしょう かつかわ・勝川春章   生没年:享保十一年(1726)〜寛政四年(1792) 67才
春章は文調と共に役者似顔絵の創始に大きく貢献し、文調が安永前期に作画を停止した後は、勝川派の祖として、また役者似顔絵の諸様式の展開を主導した絵師として高く評価されている。
【春潮】しゅんちょう かつかわ・勝川春潮   生没年:不詳
勝川春章門人。役者絵を好まず、美人風俗画に専念した。その天明・寛政の盛時の作風は、鳥居清長に近似している。艶本・黄表紙などの作品もある。晩年は版画会を退き、狂歌などに親しみ余生を送った。
【春汀】しゅんてい みやがわ・宮川春汀  生没年:明治六年(1873)〜大正三年(1914)
富岡永洗に支持する。美人画や子供絵などの風俗図を多く描く。
 
【昇雲】しょううん やまもと・山本昇雲  生没年:明治三年(1870)〜昭和四十年(1965) 96才
高知県生まれ。明治維新まで山内家家臣であった山本市蔵の次男。晩年は目黒区に住む。
7才で元山内家絵師狩野洞白の門人柳本洞素、ついで河田小龍について狩野派を学び、19才で上京後、瀧和亭につき学ぶ。風俗画・美人画などを描き、風俗記録画ともいうべき新しいジャンルを作った。
【秋香】しゅうこう  生没年:不詳
明治中期〜後期に活躍。日清戦争錦絵の他には、子供向け雑誌の挿絵などで活躍。
【松光斎】しょうこうさい    生没年:不詳
大坂の人。作画期は寛政から文化頃。役者絵を描く。
【上龍】じょうりゅう みはた・三畠上龍   生没年:不詳
天保頃に活躍した上方の肉筆美人画家。
 
【祐信】すけのぶ にしかわ・西川祐信   生没年:寛文十一年(1671)〜寛延三年(1750)
前期上方浮世絵の第一人者。絵本や肉筆美人画などを描く。
 
【井特】せいとく ぎおん・祇園井特   生没年:宝暦五年(1755)〜文化十二年(1815)
京都の女性を描き癖の強い画風で数多くの肉筆美人画を描く。
 
 
【周重】ちかしげ うたがわ・ 歌川周重  生没年:不詳
国周門人。西南戦争の他、役者絵を多く描く。
【周延】ちかのぶ はしもと・橋本周延   生没年:天保九年(1838)〜大正一年(1912) 75才
元幕府御家人。越後生まれ。はじめ国芳・国貞のち国周門人。国周門下では第一人者で、三枚続の明治風俗画のほか、徳川大奥などのシリーズでも知られ、その領域は広く数量も多い。周延が生涯を通じて最も力を入れたのは宮廷官女・大奥風俗を含む美人風俗であったと思われ、時代を反映した優れたシリーズがある。
 
【長喜】ちょうき えいしょうさい・栄松斎長喜   生没年:不詳
はじめ長喜、寛政7・8年頃子興と改名。享和一年(1801)再び長喜に復す。別に栄松斎・百川と号す。主要作品は寛政三年(1791)頃から寛政七年(1795)頃までの前の長喜時代に描かれている。美人画がほとんどで、全身像・群像・大首絵などを描く。作風は歌麿風であるが、人物姿態の描写がややずんどう型で、優れた色彩感覚を示す濃彩の独特の色調を示している。
【月麿】つきまろ きたがわ・喜多川月麿   生没年:不詳
喜多川歌麿門人。錦絵、黄表紙の挿絵を描く。
【常正】つねまさ かわまた・川又常正  生没年:不詳
享保頃より多数の肉筆美人画を描く。
【年方】としかた みずの・水野年方   生没年:慶応二年(1866)〜明治四十一年(1908) 43才
月岡芳年門人。14歳で芳年門に入る。人物の他、草木風景の描法にも独自の様式を樹立し、師芳年の激しい作風とは異なり穏やかで気品のある作品を残している。「やまと新聞」などの新聞挿絵に筆を執り月耕と共に著名となる。芳年以後の浮世絵に新風を送る。版画は風俗画・戦争画が多い。
【年信】としのぶ やまざき・山崎年信   生没年:安政四年(1857)〜明治十九年(1886) 30才
稲荷神事の行灯絵を認められ、芳年門人となる。
【年英】としひで みぎた・右田年英   生没年:文久二年(1862)〜大正十四年(1925) 64才
はじめ芳年について浮世絵を学び、明治22年青年絵画共進会に出品する。
明治20年頃より新聞挿絵や役者・風俗画、また日清・日露の戦争絵も描く。
【年光】としみつ   生没年:不詳
月岡芳年門人。明治十年頃より、西南戦争に取材した絵や風俗画にはじまり、日露戦争の頃まで作品がある。
【豊国】とよくに うたがわ・歌川豊国   生没年:明和六年(1769)〜文政八年(1825) 57才
歌川豊春によって明和頃に開かれた歌川派を、浮世絵界の一大門流に引き上げ拡張し、幕末に歌川王国といわれるほどの圧倒的勢力に築きあげた。浮世絵のあらゆる分野に筆を執り、それぞれの分野ですべて一流の域に達し、数多くの弟子を育成して世を去った。
【豊国U】とよくにU  生没年:享和二年(1802)?〜天保六年(1835)?
文政七年かそれ以前に豊国の養子となる。文政八年二代豊国を襲名。美人画・役者絵を描く。
【豊宣】とよのぶ うたがわ・歌川豊宣   生没年:安政六年(1859)〜明治十九年(1886) 28才
俳優似顔絵・武者絵・美人画・新聞雑誌の挿絵などを描く。明治十七年(1884)絵画共進会で受賞した。
 
【延一】のぶかず ようさい・揚斎延一   生没年:明治五年(1872)〜昭和十九年(1944) 73才 
美人画・風俗画や博覧会・憲法・国会関係のほか、東京名所・日清日露戦争など明治末期近くまで活動。
晩年、肉筆画を描く。明治20年代には石版画もつくった。
 
【春信】はるのぶ すずき・鈴木春信  生没年:享保十年(1725)?〜明和七年(1770)
錦絵の創始に大きく関わる。明和年間、中判錦絵の美人風俗画を制作し後の浮世絵界に多大な影響を与えた。
【広景】ひろかげ うたがわ・歌川広景   生没年:不詳
歌川広重門人。作画期は安政から慶応頃。
 
【広重】ひろしげ うたがわ・歌川広重   生没年:寛政九年(1797)〜安政五年(1858) 62才
寛政九年(1797)に江戸火消同心の子として生まれた。はじめ当時の浮世絵界の第一人者歌川豊国に入門しようとしたが、門弟多数のため断られ、やっとのことで文政八年(1811)15才で歌川豊広に入門。広重の風景画は文政後期から見え始める。「東都名所」が川口正蔵方より刊行されて、評判を呼び、名所絵広重の誕生となる。天保になり、保永堂版「東海道五十三次之内」の連作は浮世絵史上かつてない爆発的な売れ行きとなった。安政五年(1858)62才で没するまで、彼の描いた浮世絵は15000点にも達するという。
【広重U】ひろしげU  生没年:文政九年(1826)〜明治二年(1869) 44才
文政9年に初代と同じ定火消同心の子として生まれた。天保〜弘化頃に初代広重に入門したと思われる。初代の後継者として晩年の初代の画風を忠実に受け継いで、各種江戸名所絵や横浜絵を描き続け、風景画家として初代の名に恥じぬ活躍をした。
【房種】ふさたね うたがわ・歌川房種   生没年:不詳
貞房の門人。幕末に「近江八景」(横大錦八枚揃)などの他、芝居絵・源氏絵シリーズがあり、明治に入って「東京名勝」などの開化風俗画や、西南戦争関係、小説・新聞の挿絵を描く。
【米作】べいさく たぐち・田口米作  生没年:元治元年(1864)〜明治36年(1903)
小林清親に入門。ポンチ絵・風景画の他、日清戦争絵がある。
 
【北為】ほくい かつしか・葛飾北為  生没年:不詳
葛飾北斎門人。錦絵の他、挿絵や肉筆画など作域は広い。
【北雲】ほくうん かつしか・葛飾北雲  生没年:不詳
葛飾北斎門人。文化から天保頃が作画期。
【北雅】ほくが かつしか・葛飾北雅  生没年:不詳
葛飾北斎門人。作画期は文化から天保頃。
 
【北鵞】ほくが  生没年:不詳
葛飾北斎門人。北斎に破門され江戸を去り信州に移ったといわれる。
 
【北斎】ほくさい かつしか・葛飾北斎   生没年:宝暦十年(1760)〜嘉永二年(1849) 90才
浮世絵師中、最も長い七十年余りの作画期を誇り、画風も次々と変転させて没するまで止まることがなかった。
19才にして勝川春章の門に入る。翌年早くも勝川春朗の号を受ける。寛政六年(1794)頃、勝川派を去り春朗号を廃し、前後して狩野融川に入門。同じ頃、三代堤等琳にも近づいたと伝えられる。銅版画の洋風画にも興味を示してそれを学んだ。役者絵に始まり、豪華な摺物、流行小説の挿絵、美人画、春画、博物画、奇想画、風景画、肉筆画と探求のテーマを変えては成功を収めていった。画号の転換を30回余り、転居は93回にも及んだという。
【北寿】ほくじゅ しょうてい・昇亭北寿   生没年:宝暦十三年(1763)?〜文政七年(1824)以降
北斎の弟子にして師の洋風版画を最も忠実に受け継ぎ、更に独自の風景版画を創り出した絵師。
生没年不詳であるが、作画期は享和頃〜文政頃と推定される。明暗表現を単純化し、簡略化された線と面を用いて
独自の画風を樹立している。表現や配色にも独特の画風を樹立している。
【北馬】ほくば ていさい・蹄斎北馬  生没年:明和八年(1771)〜弘化元年(1844)
葛飾北斎門人。肉筆画は多いが錦絵は制作してなかったとみられる。摺物などは制作していた。
 
【北渓】ほっけい ととや・魚屋北渓  生没年:安永九年(1780)〜嘉永三年(1850)
葛飾北斎門人。
 
 
【政信】まさのぶ おくむら・奥村政信   生没年:貞享三年(1686)〜明和元年(1764)
墨摺絵・丹絵・紅絵・紅摺絵など多種多様の作品を制作し、美人画・武者絵・役者絵など多岐にわたる。あぶな絵にも優れた作品を残し、肉筆画でも優れていた。
【政演】まさのぶ きたお・北尾政演   生没年:宝暦十一年(1761)〜文化十三年(1816)
戯作時の号、山東京伝で有名。黄表紙挿絵、役者絵や美人画の錦絵も手がける。
【政美】まさよし きたお・北尾政美   生没年:明和元年(1764)〜文政七年(11824)
別号の鍬形寫ヨとしても知られる。錦絵・肉筆・鳥瞰図など手がける。
 
【益信】ますのぶ   生没年:不詳
一枚絵が数種と肉筆作品がある。作画時期は明和期(1764〜1772)。
 
【師宣】もろのぶ ひしかわ・菱川師宣   生没年:?〜和元年(1764)
墨摺絵・丹絵・紅絵・紅摺絵など多種多様の作品を制作し、美人画・武者絵・役者絵など多岐にわたる。あぶな絵にも優れた作品を残し、肉筆画でも優れていた。
 
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【安治】やすじ いのうえ・井上安治  生没年:元治元年(1864)〜明治二十二年(1889)
芳年門に入るがすぐにやめ清親に入門する。17歳で活動時期に入るが夭折した。
【芳幾】よしいく おちあい・落合芳幾  生没年:天保四年(1833)〜明治三十七年(1904) 72才
嘉永二年(1849)国芳に入門。役者絵・美人画をよくする。武者絵・歴史画などもよく手掛ける。
 
【芳員】よしかず うたがわ・歌川芳員  生没年:不詳
国芳の門人。武者絵・花鳥画などのほか、横浜絵を描く。
嘉永の頃から異国風俗に強い関心を持ち、次々に版行する。横浜絵の先駆者の一人でもある。
【芳形】よしかた うたがわ・歌川芳形  生没年:天保十二年(1841)〜元治元年(1864)
国芳門人。十二、三歳の頃に国芳の門に入る。
 
【芳艶】よしつや うたがわ・歌川芳艶  生没年:不詳
十五歳で国芳に入門。刺青下絵では名をはせる。看板絵や生人形の錦絵なども多い。
 
【芳年】よしとし つきおか・月岡芳年   生没年:天保十年(1839)〜明治二十五年(1892) 54才
12才頃国芳に入門。15才でデビューする。明治になり最初の神経衰弱を患う。明治六年には治り、号を一魁斎から大蘇に改める。師国芳の看板でもある歴史画・稗史画を受け継ぎ、それに加えて理知的・写実的側面を強化した。また思わず目を背けたくなる様な残酷絵は芳年の代名詞にもなった。芳年は絶大な人気を得て、作品数は10,000を超えるといわれるほどに多作だった。その流れは弟子の水野年方から鏑木清方・伊東深水へと引き継がれ、現代まで続いている。50代になり再び精神病を病み、長い闘病生活の末に1892年54歳で死去した。
【芳虎】よしとら うたがわ・歌川芳虎  生没年:不詳
国芳の得意であった武者絵に秀でる。また役者絵・美人画・横浜絵・開化絵などでも活躍。
嘉永二年(1849)、「道化武者御代の若餅」で徳川家康を風刺手鎖50日の刑。のち、国芳と不和になり、破門されたという。
【芳房】よしふさ うたがわ・歌川芳房   生没年:天保八年(1837)〜万延一年(1860) 24才
国芳門人。若くして没したので作品は少ない。
【芳藤】よしふじ うたがわ・歌川芳藤   生没年:文政十一年(1828)〜明治二十年(1887) 60才
国芳の門人。横浜絵・武者絵・はしか絵、子供向きの組上絵・おもちゃ絵・双六などを描く。
明治5・6年頃からはおもちゃ絵が専門となり、おもちゃ絵の芳藤として著名である。
【芳宗】よしむね うたがわ・歌川芳宗   生没年:文化十四年(1817)〜明治十三年(1880) 64才
天保六年19才で国芳に入門。彩色の技に秀で、高弟として師の作品の色差をする。師の怒りに触れ破門されること十数度に及ぶ。本人の作品は少ない。晩年は娘しまが芸者となり、芸者置屋として新橋に住む。誤って井戸に落ちて死ぬ。
【芳宗U】よしむねU  生没年:文久三年(1863)〜昭和16年(1941) 79才
13才の時、芳年に入門。15才の時に西南の役の錦絵をつくり、新聞・単行本の挿絵なども描く。
【芳盛】よしもり うたがわ・歌川芳盛   生没年:天保一年(1830)〜明治18年(1885) 56才
幼時より国芳門に入り、武者絵・時局絵・花鳥絵・戯画・横浜絵なども描く。
明治以後は一時内務省十三等官吏に出仕、明治十八年(1885)官を辞して横浜に移住した。
 
【流光斎】りゅうこうさい   生没年:?〜文化七年(1810)頃
上方浮世絵の役者似顔絵様式を確立した画家。江戸の勝川派の影響を受けつつ、美化しないリアルな役者似顔絵を描き、当時上方にあって一世を風靡した。
【柳村】りゅうそん おぐら・小倉柳村   生没年:不詳
明治十三・十四年に刊行された九点の東京名所絵に名を刻まれている以外は、すべて謎の画家。版元は柳村と同じ住所の新井八蔵。八蔵と柳村の関係も明らかではない。清親の光線画とはまた違った光と影の風景画を描く。
(参考文献:原色浮世絵大百科事典 第二巻 浮世絵師 大修館 / 日本の美をめぐる 小学館)
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